管理番号 | 新品 :65871019 | 発売日 | 2023/12/26 | 定価 | 8,800円 | 型番 | 65871019 | ||
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こんな物が、会津若松の旧家の蔵から出てきたと言う事で、20年程前に蔵出し屋さんから購入した品です。古い時代の皆川マス作の土瓶です。鑑定はしていません。素晴らしい品です。残念ながら・・あちこちひび御座います。少しの直し御座います。水漏れは、無いようです。
取っ手まで・・高さ・・27センチ、蓋の上まで・17・5センチ、胴の直径・18センチ、注ぎ口まで・26センチ程です。コレクションにいかがですか。佐川急便で少し安めに送ります。宜しくお願いします。
皆川 マス(みなかわ マス、別表記:マス女[1][2][3]、1874年(明治7年)[4]4月10日[5] - 1960年(昭和35年)7月8日 [5][6])は、栃木県芳賀郡益子町の益子焼の絵付け師:陶画工である[2][3][4][7][8][9]。その益子焼の「山水土瓶」の陶画[10][11][12][13]は、濱田庄司に「自分と益子の縁を結んだ」と言わしめ[14][15]、そして土瓶の絵付けを濱田庄司や柳宗悦たち民藝運動家に称賛され[2][16][12]、「無名の工人」[8][12]の代表的人物として有名となった。生涯[編集]生い立ち[編集]1874年(明治7年)[4]4月10日[5]、栃木県真岡市西田井に生まれた[1][6][17]。1884年(明治17年)[4]、10歳の時に益子の「鳥羽絵師」皆川伝次郎の養女となり[6][17][4]、養父から土瓶の絵付けの描き方を文字通り仕込まれた[1][4][6][5]。与えられた手本をただその通りに原本通りに描き写して習得していくものであり、創意や創案といったものは一切無かった[1]。白色の無地の土瓶に墨の筆で何遍も描いては消し、筆順や筆を走らせる方向さえも身に付ける職人芸を身に付け[1]、15歳の頃から独り立ちをし、絵付けの仕事に従事し始めた[5][6]。1887年(明治20年)前後の頃は、関東一円や信楽[要曖昧さ回避]の小学校や農家、そして各家庭の昼食時のお茶用に使われていた益子土瓶の全盛期であったため[6][12][18]、最も若い絵付け師として忙しく働いた[1]。絵付け1個につき5文から12-13文というとてつもなく安価な代金で[19] 1日に500から700[12]、簡単な図柄だと1,000から1,200もの土瓶に絵付けを描き上げ[1][5][17]、その生涯ではゆうに400万個もの絵付けを描いたのではないかと推察されている[19][12]。明治40年過ぎぐらいにはマスのような絵付け師が益子にも何人かいたのだが [20]、大正に入ると益子の土瓶は下火となり、飴釉を掛ける手法が流行ったこともあり[20]、絵付け師も徐々に減っていったが、マスは最後の一人になるまで細々と絵付けの仕事を続けていった[1][2][6][17] [20]。